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+++ステートメント+++
| 泥喰(どろはみ)の絵画 水を含んだ画布の上では、色彩や筆触はその具体性は奪われ曖昧な滲みとなるように、手応えの無い脱力感、イメージが希薄となる喪失の感覚と向き合わねばならない。そのようなある種の条件的な制約の強要に抑圧される瞬間は、己の本質と直面し計り知るときなのではないだろうか。 ステイニングを用いて描く理由の一つは、その技法に伴う物理的な制約によって直面する葛藤が露呈する為である。横倒しに寝かせる事が定石となるとき、俯瞰的な姿勢条件の制約によって、間接的な方法論では垣間見る事の無い全身を用いた直接的な身体性や工夫を獲得しなければならないし、あるいは乾燥の時間内での色彩の鮮度を保ち描く為には反射神経や判断力が必要となってくる。 限界の飽和を積極的に享受する場合、画面は曖昧なまま散漫し茫漠としたものとなるのだが、逆接的な反動としての触発を連鎖する場合、それは次第に重厚かつ濃密な画面へと変貌して行く。 それぞれの選択においてそれぞれに暗示される解答が得られるのであるが、前者においては到達する結論が消滅的な傾向や停滞そのものにあるとき、やはり画家として引き受けるべき仕事は、その抵抗や反発の中で込み上げるものを画面へと定着させる事なのだろう。 重要な事は継承の方法である。ある明確な地と図の関係性が、断続的な継承を謀るように、前伝統が築き上げた状況の排除に基づく批判精神によって、自身の空虚さへの自覚な強調や依存を投影するだけでは、無関心を装う距離感のように今日の消費社会の中で養殖される「主体性の無さを主体」とする感覚の一端を担うのみであるように思われる。現代に対し不合理や矛盾、不安や焦燥といった感覚を持つ生身の一人間として、葛藤や苦悩といった体感に基づく線引きの出来ない痛覚への克服の中での継承を求めたいのである。 余談であるが、芥川龍之介の小説・蜘蛛の糸の逸話にあるように、蓮池の水辺に佇む時、その水面に映るものは罪人の蠢く地獄の血の池に通じていた。月も星もない地獄の空の中途に垂れた蜘蛛の糸は刹那の判断によって己の心を図り知るものであった。 色彩や筆触の喪失の感覚の中で変化変容する私の絵画の水面に佇む時、あらゆるものが混濁する今日に暗示されるものは、一見美しく見える水面の底にある倒壊する現実と崩落した神話といった手を掴む拠り所もない混沌の底無しの泥沼が広がっているように思われる。 そのときに、沼底の深くに沈み込み思考を停止してしまう潔さよりもむしろ、咽びもがく無様さの中で泥の味を忘れないでいたい。 2010年2月 |