Artist talk 門田光雅+沢山遼(美術批評)

日時:2011年11月5日(土)15:00-16:30
場所:SATOSHI KOYAMA GALLERY  http://tokyo.satoshikoyamagallery.com/

「Grand-opening Exhibition(グランドオープニング展)」会期中に、門田光雅のアーティストトークを沢山遼氏(美術批評)を迎えて開催いたしました。
沢山氏は、門田の2011年5月に遊工房で開催された個展「Parallel」に「筆触のパラレリズム」を寄稿いただき、門田の作品における近代絵画の成立要素との関連性を参照し、さらに「筆触の装飾性」や「並行的=パラレリズム」という固有のキーワードを用いて批評を展開しています。
本トークセッションでは、門田の作品をこれらのキーワードを手がかりにレビューを行いました。


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Part I これまでの制作のレビュー

門田:まず始めに今までの制作の展開・過程を追って話を進める。
プロフィールとして、1998年に東京造形大学に入学、美術学科絵画専攻。在学中は「概念コース」を選択履修する。コンセプチャルな制作展開の理論を学ぶ。

展開1.2002年以前:大学時代
トレースの展開:
日常のスナップ写真を拡大し、その輪郭をなぞりカーボン紙でジェッソ地の組みパネルに転写していく絵画。
色彩を乗せるのではなく、色彩を奪っていく作業としてのトレース。日常の剥奪の暗示として、(宗教、教育、政治性など自らのポジションを消去した)上辺に残るものの確認、また社会に対する空虚さ、批判などが根底にあった。



(参考作品「fire inside my heart」 2000年 パネル、綿布、ジェッソ、カーボン紙 )

展開2.2002〜3年:システマティックな手法での図形描写
版技法(ステンシル)の展開:
コンピュータで作図した幾何学的な図形と市販のレースを組み合わせ、合皮に箔押しや着色するステンシル技法の作品。トレース作品同様に、社会的な装飾性の示唆や、価値観の反転の暗示、身体性と社会性が不一致なシステマティックな同時代的な距離感を「地と図」の関係を意識しての制作。



(参考作品 「symmetry」 2002年 パネル、洋金箔、合皮)

展開3.2004年以降:ステイニング
ステイニング技法の展開:
人生の転機の影響により、感情を抑制したシステマティックな絵画と自分との距離感(違和感)を持ち始める。身体性と社会性を結ぶ、その境界への意識が生じる。ステイン(染み)という輪郭の曖昧な地と図の境界のない絵画の制作を開始する。



(参考作品 「autopoiesis」 2005年 アクリル、綿布)

展開4.今日の展開へ
しかし、ステインという描画そのものの持つ表現への「消極性」に対する反発が生じる。消極的な社会性を消極的なまま捉えることへの限界(安易に消費文化の中に消費されてしまうことなど潜在する危機感が露呈)。その抵抗として、当初から使用していた画材である研磨砂「カーボランダム」の、その黒色性や強い異物感をより意識的に使用する。それが今日の絵画の展開に繋がる一つの手掛かりとなる。



(参考作品 「mement mori」 2006年 アクリル、綿布)

Part II 沢山氏による講評

沢山:門田が2005年の契機でステイニングというよりモダニスティックな絵画技法(より大きな身体性、描画材、鑑賞者と絵画が一対一の関係性を持つこと)への展開以前に、装飾的な絵画作品を制作していることを示唆。ロウキャンバス(無地のキャンバス)に絵の具を染みこませるというステイニングの技法と「染物」のプロセスの一致。例えば2005年当時代表的な作家である丸山直文もテキスタイル出身の作家だった(沢山自身も当時フランケンサーラー論を執筆)。そこからステイニングの技法と装飾性の関係について「テキスタイル」というキーワードに転じる。「文章=テキスト」の語源も「織られたもの」に由来。
「テキスト=織り成される」状態とは、記号的なヒエラルキー、糸の重なり合うことで成立する関係=層の関係、格子の構造の発生など。重なりあうことで一方が裏切られる関係である。門田の作品展開の中でも「格子状」の作品が出てくることを示唆。



(参考作品 「罠」 2007年 アクリル、綿布、カーボランダム)

沢山:さらに2011年の近作などでは、強い筆触により、画面上の上部の筆触が下層の筆触を否定しながら成立することで、重なり合う関係が一義的に定義できない状態、レイヤー構造が進展的でない「テキスタイル的な構造」となっている事が門田の作品の一つの条件であり、装飾的な原理によって成り立っていると推測。



(参考作品 「circus」 2011年 アクリル、綿布、カーボランダム)

Part V テキストと文脈

門田:テキストと文脈についてクレメント・グリンバーグについて言及。
「歴史(文脈=コンテキスト)」とは、伝統的なメディウムの限界を積極的に享受すること」という言葉と今回の「テキスト」の関係について。絵画においては「地と図の関係」に派生する。個々の「筆触」を単位として見ていくと、重なりあうレイヤー構造が存在するが、それらは互いを否定し合い、裏切り合っている。地と図の関係が裏返ることにより「逆説的な」関係性を示唆する事ができる。これはアメリカ・日本などの今日の状況を省みても、それぞれにおいても「戦後」という条件の中での、国と国の間の政治・経済・文化といった発展の関係にも似た、ある種の共通性を示唆できるのではないか。

沢山:「書き換えられる状態」が門田の作品の一つの条件である。
例えばグリンバーグが、アヴァンギャルドと伝統が実は同時に成立するという論旨を30年代後半に展開した際、影響を受けた批評家のT・S・エリオット。伝統の継続の条件にはパラドックスが必要である。古いものがどのように引き継がれていくかの問題として古いものは常に新しいものに「書き換えられていく」。このパラドックスを支えていくものが「歴史」そのものである。
このテキストの問題とテキスタイルをもう一度比較してみると、「上書き」がいくらでも可能な「文章」としてのテキストはテキスタイルとしての条件とも一致する。上書きしていく事が、その下の層によって否定される、上書きしていく対象によって、上書きされる。これはエリオット的な状態であるといえ、門田の作品にも共通する。

門田:作品制作における同義性と二面性への意識が自ずとある。
沢山の指摘の中にあるような絵画の構造としての「パラレリズム」。例えば、色面と色面のレイヤー構造であったり、画面上で意識的に湾曲する面をよく用いるのだが、その面白みとして凹凸の両方の効果を示唆できる形態に対する両義性など。

Part X マジックメモ

沢山:個々の筆触が錯綜した層関係を形成しているため、ある距離の感覚が門田の作品の中にある。そのような視点で見ると「平面的」ではない絵画である。2010年ぐらいの作品から筆触と筆触の距離(差異)が平面性を否定している。この問題をもう一度テキストに置き換えると、フロイトの「マジック・メモ」の原理が想起される。「マジック・メモ」とは、書き込んだ文字や絵を簡単に消すことができる子供の玩具。フロイトによれば、下層の筆圧だけが微妙に残ることが記憶の原理とした。記憶は、いくらでも上書きされるものである。例えばローマという都市では、古い下部構造がそのまま顕在化して新しい都市構造に形成され現代に引き継がれているように。
門田の作品にある「上書きのプロセス」は過去に書かれたものが消されていく、しかしそれが残っていく時間的な問題と、筆触と筆触の間にある空間的な落差「ギャップの問題」が生じている。
それは門田の作品に使用される「黒」の色彩の問題にも通じてくる。

Part Y 色彩

門田:黒の使用によって空間が締まる効果がる。黒と白の差。

沢山:筆触の落差は過去から現代に通じてくる時間的な条件である。
それに対し色彩的な落差は見る者が最初に触れる問題であり、色彩が絵画的な統一や調和をするはずが門田の作品は「黒」がそれを損ねている。「黒」は色相環の中にはない色であり、しかし一方であらゆる色彩が混成したときに出来る色。
黒を使用し形成していくときに起こる抵抗感、黒の多用による反絵画性がある。調和ではなく不調和という亀裂を生む。

門田:結局、反構築性のなかで構築する感覚がある。
例えば、私たちの生きる過去・現在・未来という時間軸も3色に明確な色分けが出来るわけではなく、不文律の中で成立している。矛盾の転換点の「今」という時間を生きること。何か逆転しながら連続していく、そのような感覚は絵を描く上で重要な要素である。

沢山:否定して何かを作り上げていくことは絵画にとって不可欠な要素。例えば真っ白なキャンバスを否定することで絵画は始めて開始される。言い換えれば汚していく不遜な行為とも言える。しかしそれは絵の具を付加することで支えられる。
門田の作品の筆触から強調されるものは「消していく」という作業である。
作品が筆によって描かれず、板やヘラによって描かれる点を指摘。

Part Z 筆触

沢山:ヘラによって描くことで絵の具を付け足す作業とそれを削っていく作業が同時に進行する。これが先ほどのフロイトのマジック・メモの原理に通じる。門田の言うような過去・現在・未来が一つの絵画に組み込まれる層によって成立するもの。抑圧された状況を打ち消そうとするにも関わらず、過去は消される事によって蘇る。門田の作品は見ていて心地よくない作品、しかし美しくないにもかかわらず、気がかりな刺激の性質を持つ作品。幼少期の恋愛の抑圧のギャップのように人間の生理的な部分への触発。例えば「美」の条件として、カントは「目的無き合目的性」、あるいは「合法則性」と言った。それは、破綻が無くて統一的に調和されている状態、目的が無い中に目的だけが見えるために、整合性をそこに感じること。しかし、フロイトは逆に、美と芸術は異なるものであるとする。例えば女性器に興奮を覚えるときのように、美とは醜いものにも生じる。カント的な無関心性によって見るということと、ある対象を関心を持ってまなざすということの違いがある。それが現代美術のクリシェにも通じ、美の否定として美に対するある種のオルタナティブとしての「おぞましい」表象、80年代の表現にも通じている。しかしフロイト的な美と醜悪の共存関係としての美の追求をする作家は意外に少ない点を指摘。抑圧されたものの回帰としての美の検証というものがあり得るのかということを考えたとき、門田の作品の画面の調和を破壊する病的な兆候として現れているような部分に示唆でき、それはステイニング初期の作品にも見ることができる。

門田:否定する中で構築することの重要性、その顕現として、カーボランダムの黒色によってステイニングの否定を狙う効果があった。真っ黒い画面から描き進めるアクロバッティックな時期も。

Part [ パラレリズム

沢山:こういった一連の絵画は、画家が自らの描く行為を抑圧する部分と見るものの視覚的な回路を抑圧する両面性、平行関係がある。

門田:パラレリズムの出所の一つとして、今日の日本の状況論としてどっちつかずの状態が挙げられる。
日本のアジアの最果てである東洋としてのアイデンティティは、戦後、あるいは明治開国後の西洋文化の流入を受けての急激な変化を遂げるように、そもそも日本の文化成立が大陸からの影響を強く受け(稲作文化の伝来、仏教の流入など)そのオリジナルの本質を具体化する事が極めて困難な状況であること。西洋の文脈の連なりにおいては「キリスト教」という中心がある中で変化を遂げてきたのに対し、日本は中心無き文脈の連鎖との差異が挙げられる。しかし常に挟まれる視点、中心の無い視点はその両側を見る可能性を持っている。そのような状況論としてのパラレリズムであり、更に絵画という装置の持つ状況論を超えた可能性に言及できるパラレリズムの意味も含んでいる。

沢山:自分たちを省みたとき、沢山は批評というメディア、門田は絵画というメディアに関わっている。日常生活とは全然パラレルではなく、目の前の一個のことしか私たちは経験する事が出来ない。しかし何かが上書きされていくことは絵画やテキストといったメディアの条件である。パラレリズムを音楽に例えると、個人がデモテープで複数の音源を録音するのとスタジオで複数人が演奏し録音する方法との違いがある。自分たちの関わっているメディアと日常生活を否定している条件の違いから考えられる糸口がある。

Part \ 震災以降の今日

沢山:卑近な問題として例えば、2011年3月の震災以降、よく言われるように極めてパラレルな事態が進行しているといえる。
非現実的な、非日常的な日常がある。嘘みたいな事が毎日起こり、ツイッターにも本当かデマなのか分からないような情報が次々とアップされている。震災後の瓦礫の受け入れ問題など、特殊な事例と自分たちの日常とをすりあわせていく必要に迫られている。そのような体験から、非日常という概念があり得ないものになったという感触がある。今はどんな「非日常」もすぐに「日常」に侵食されてしまう。非日常の日常化。

門田:堂々巡りの状況の恒常化。

沢山::かつてはまだパラレリズムを信じられた状況があった。仮想現実を追ってみたり、日常の細部に存在するファンタジーに注目できたが、その幻想が剥がれ落ちた。二元論だけでは成立しない状況。パラレリズムは崩壊し、パラレリズムを信用できない状態にある。

門田:それは一つ確かに言えることで、結局絵画においてもそれを支えてきたものが、例えば今日の美術の中心とされる西洋を省みても、それ支えている中心が宗教や経済といった具体性の無いものを拠り所にしている点が挙げられる。しかし門田自身は沢山ほどパラレリズムの崩壊はまだ無いとみている。また違うものにシフトしていく感覚がある。以前沢山が言っていた「現実が現実以上のものになった」という感覚が強い。

沢山:一方で、今回の事例から、完全なカタストロフはあり得ないことが明白になった。むしろ飽和した状態=現実が現実以上のものになることが起こる。
例えば今、経験として放射性物質という知覚できないものに囲まれている。匂いも無ければ見えもしない。しかし心理的・身体的には、潜在的に影響を及ぼすもの。それに対して、個々人が選択的に生きなければならない切実な問題を抱えている。
このような卑近な問題は、今までは「仕組み」でしかなかったパラレリズムが今始めて、本当の意味でのパラレルとして現象すること。ゆえに、現在は真の「パラレリズム」を経験している状態なのかもしれない。
抽象絵画をこの現実的で卑近な問題と置き換える必要も無いのかもしれないが、絵画の下層と上層があって、筆触同士が否定し合う関係があるように、絵画もまた、平穏でない内部紛争を抱えている。絵画を一つの領土として考えたとき、空間を占拠するという政治性がある。そこで占拠するものが色彩であったり筆触であったりが異なる質量・要素として干渉したり、均衡したり、破壊しあったり、上書きされたりされなかったりしている。これはかなり現実的に切実な問題を抱え込んでいると言える。

門田:最近の(2011年11月現在)自身の身の上話であるが、絵画と社会性の問題で「取ってつけたような社会性を絵画の上で語ること」への批判を受けた事がある。しかし、門田は逆に今ほど取ってつけたような社会性を語れる時代は無い、嘘のような軽い言葉のような現在の状況を示唆する。

沢山:逆に今は何をやっても社会的な問題と結びつく。こういう時代は社会性などを語らなくても社会性になる、そういった次元に突入している。モダニズムの存在意義を云々しても意味が無いような、そのようなゲームが終わった。

門田:逆にそのような肩の荷が下りた状態か。

沢山:業界的な言語のゲームは良くも悪くも終わったということ。

門田:先ほど過去・現在・未来は不文律だと言ったが、今のアートシーンの瞬間性(インスタント)が正直嫌いで疑問がある。例えば一年しか持たないような安易な状況を戦略として生み出すこと、絵画(美術)というものがもっと長期的なスパンで成立できる状況を求めたいこと。

沢山:それが安易かどうかはともかく、絵を描くことが保守か反動かというような枠組みでは捉えられない今の状況がある。
例えば、呼吸をすることさえも、「選択」される状況にある。呼吸すること、外で歩くこと、都心に来ること、東京に居つづけるということさえ、一個の選択として見なしうる。つまらないことを言ってもしょうがないのだが、このような状況で「絵を描くから保守」「絵を描くから反動」とか、「絵を描くからモダニスト」あるいは逆に「今、あえて絵を描くからポストモダニスト」などという枠組は意味を成さない。それこそ「デュシャン的な状況」になってきていると言える。
つまりデュシャンは呼吸をすることさえ、はじめて芸術活動としてカウントした。何かを見たり、選んだりするという選択的な問題が芸術的課題となる。そのような「レディメイド」の概念が今の日常そのものに通じている。

門田:本当にそのような事が、日常的になったという事を「すごい」と言ってはいけないのだろうが、考え深い。


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■沢山遼 Ryo SAWAYAMA
1982年生まれ。美術批評。
http://ryosawayama.sakura.ne.jp


【2011】
「擬態と変成」gallery αM、武蔵野美術大学80周年記念展「変成態―リアルな現代の物質性」(ゲスト・キュレーター:天野一夫)記録集(武蔵野美術大学)
「放射能の展示空間」『美術手帖』10月号
「遍在する支持体」『美術手帖』8月号
「人質的形象」『美術手帖』7月号
「プラスティック・ツリーの行方」『美術手帖』6月号
「特集 現代アートの巨匠」ブルース・ナウマン、カール・アンドレ、アナ・メンディエータ作家解説『美術手帖』5月号
高嶺格論「観ることのパフォーマンス」「artscape」2011年03月01日号
「複製の複数」『美術手帖』2月号
「皮膚が与える時間」『美術手帖』2月号

【2010】
「建築の「大きさ」とはなにか?」10+1 web site|テンプラスワン・ウェブサイト|特集:石上純也──現代・日本・建築のかたち
「陰と影の由来」『美術手帖』11月号
展評'10「手のなかの空 奈良原一高 1954-2004」展『アサヒカメラ』11月号
「針生一郎 人生と仕事」「針生一郎主要著作解題」『美術手帖』9月号
「超越性の経験」『美術手帖』8月号
カルチャーパワー「針生一郎インタビュー」
座談「2010年代はどこへ向かうのか?」藪前知子×保坂健二朗×粟田大輔 『美術手帖』6月号
「引き剥がされた人称性」『美術手帖』5月号
「砂漠のイメージとしての刺繍」『美術手帖』4月号
「色彩のマテリアリティー」『美術手帖』3月号
「現代アーティスト・ファイル、スカルプチャーの核心」概論&作家解説。ロバート・ゴーバー、デヴィッド・ハモンズ、フランシス・アリスほか。『美術手帖』2月号
「ディスプレイの秩序」『美術手帖』2月号
「目覚めはかならず訪れる」『美術手帖』1月号

【2009】
「リビングデッドな事物の生態」『美術手帖』12月号
「イデアの向うところ」『美術手帖』11月号
「分割される自己―ロザリンド・クラウスにおける彫刻とヴィデオの諸問題」『第一回所沢ビエンナーレ美術展 引込線』(所沢ビエンナーレ実行委員会)
「レイバー・ワーク:カール・アンドレにおける制作の概念」『美術手帖』10月号
「画像と肖像―彦坂敏昭《像画》をめぐって」『ARKO2009彦坂敏昭』(大原美術館)
「色とかたちが破壊するもの」『美術手帖』7月号

【2008】
「記憶装置としての場、平面」『美術手帖』11月号
「捻転する彫刻―「芸術と客体性」から、ブルース・ナウマンを読む」『所沢ビエンナーレ・プレ美術展 引込線』(所沢ビエンナーレ実行委員会)
「非在の表象―ゴードン・マッタ=クラークの初期作品群」『LACワークショップ論文集』第2号(LAC研究会)

【2007】
「ヘレン・フランケンサーラーの1950年代」、修士論文
「1940年代の平滑空間」『芸文』第1号(武蔵野美術大学)

【2005】
「岸田劉生の美術史」岸田劉生論、卒業論文PDF